名刺
名刺というものは興味深い。
情報が載っているのは当たり前なのだが、そこに様々な期待や思惑、覚悟が現れる。
私は今までに何度も名刺を作ってきたが、肩書きを書いている時と書いていない時がある。
何をやっているということが言葉にしづらく、どうにもすでにある言葉では説明がしづらい。
結果、肩書きを書かなくなったのだが、それでは分かりにくい。なので一時期は、◯◯代表、という表記を使っていた。
たいして意味もない言葉だが、あるのとないのとでは、違う。代表、という肩書きをとっかかりとして使っている。
自戒の意味もある。
代表と名乗っておくことで、実際にやってることが雑務でも、責任を見失わなくて済む。
組織の中では何でも屋の立ち位置なので、特に決まった表現を持たず、その時やりたいことをできることをやっているのであるが、変わらないことは、その組織に名前をつけたのが私だということだけだ。柔軟な組織でありたいので、役割分担はするが、形式は持たないという形式をとっているので、メンバーも固定ではなく、入れ替わる人もいれば、なんとなくずっといる人もいる。
それはそれでいいのだが、メンバーが固定されない組織は、中心部の核の強さがないと無法地帯になりやすい。
それは私としては見過ごせないので、ある程度は私が見張っていることになる。
しかし、規約がないので、見張るのも私個人の裁量になる。それはそれで責任がでかい。
だから、組織に名前をつけてその名に恥じない行動を、と言っておくのだ。
会社ならまだ分かりやすいだろうが、芸術だのになると分かりにくくなる。
ある程度、常識を逸脱した部分に芸術を見出す事が多いからだ。なにを法とするかが個人の裁量に委ねられる。
当たり前のものには、人は興味を持ちにくい。だが、当たり前のものに違う見方を与えると、人は感動することがある。私は個人的にはこういう在り方の方が好きだし、個人的にはこういうやり方しかできない。
天啓なんてものはない、というのが私の考えなので、どんなものも経験から想像したものだと思う。本人の感じ方は、降ってくる、だとしても、他人から見たら仕組みが分かったりする。
特に私は、一見関係しないようなことを結びつけて考えることができるので、仕組みに気づいてしまいやすい。
あまり驚かないのはそのせいだと思う。
そのかわり、仕組みがわからないものを長く飽きずに観察していることができる。
他人から見たら仕組みが簡単にわかっても、それを聞いて理解できても、自分が腑に落ちたり体感するまで観察している。
これが、降ってきた、という事なのだろうと思う。
芸術がつまらなくなったわけではなく、仕組みの知識を得たが故に輝いて見えなくなる場合もある。
そんなこんなで私は芸術団体を脱退し、特になにも決まりのない組織を持っている。
他人がこの組織になんと肩書きを付けても構わないが、私はこれを芸術組織とは呼ばない。そうなりたくない。なってしまったら、それはその時考える。
これが今の私の宣言である。
なんとも頼りないが、風に吹かれてそよいでいる方が、折れないことはよくある。折れてもまた芽が出る場合もある。頼りないなら頼りないなりの在り方を。その方があとあと強い、ということは体感として知っているのだ。
(石出清太郎)
此岸から彼岸への返書
見切り発車でやることもたまには必要。
それは普段周到に準備した事の発露であると思い込んでおく。
東京は千駄木のCafe gallery幻、改め、Gallery幻がオンライン同人誌を始めたという。
教えていただいて読ませてもらったが、なかなか興味深いなと思う。同人誌の原点を探りつつも新しい道を探索している。
語るより読んでいただいた方が良いので、リンク先をご参照頂きたい。
私たちはこの試みに、応援ではなく、賛同し関与したいと思う。
そのひとつの形として、ここになにかを書いておこうと思ったのだ。
幻の代表や店長と直接会って話をしたり、手紙のやりとりをしてもいいのだが、それでは個人間のやりとりになる。
私たちは、同じ時代に共に存在する、別の流派の、同人誌として、賛同したい。
幻と苔の根では、立場も目的も違う。
しかしそれらは対立するものではない。
必要があれば、交流し、対決することもあるかもしれない。
幻、というのは彼岸のことなのかもしれない
到底、言葉になり得ない世界の話かもしれない
苔の根、と名乗るからには我々は此岸のものだろう
だが、苔も幽玄な世界を見せることはある
美が彼岸にあるのであれば、羨ましいことだ、幻、という空間は此岸に居ながらにして彼岸を見る展望台なのかもしれない
言葉になりえない、かなわないと知りながらも、手を伸ばす覚悟はあるか
そんな声を霧の中で聞いた気がする
風が吹けば消えてしまう
だからこそ霧は美しく幻を見せるのだろう